「胃ろう」を考える

「生きる」とは? 改めて問われる時代・・・http://www.nhk.or.jp/gendai-blog/100/120463.html で考えさせられたが、現代の医学が「生きる・生きている」ことについて大きなテーマを投げかけられた「胃ろう」処置である。

「胃ろう」で生命を維持しても、これでも生きている・・・もうあまり人工的な治療は・・・これが延命医療?処置?・・・ただ、人工的な栄養補給を行えば、しばらく生きられる。その判断は、本人・家族は難しい。

本人の意思表示も確認の判断は重い。ひと昔前なら、「人間、食べられなくなったら、終わり」などというように、「食べられなくなると、少しずつ弱って死んでしまう。」というのが常識?であった。

医療技術の進歩によって、新たな現実に直面していると言ってもいい。「『胃ろう』などをしたことについてどう考えているか?」と聞いたところ、「わからない」「つけなければよかった」と答えたかたが半数。「もし医師から『胃ろう』などをやめる選択肢が出されたらどうするか?」という問いには、3人に1人が「やめる」と回答したという。

「生きる」とはなんなのか?「長く生きられるのならば、生きられるほうがよい」と無条件に言えるのか?延命医療の技術の進歩で、こうした根本的な問いを考えざるをえない状況になっている。

石原伸晃自民党幹事長がエイリアン発言が話題になっているという。小宮山洋子厚生労働相は7日の閣議後記者会見で、6日のBS朝日の番組で胃瘻(いろう)について 「患者や家族に不快な思いをさせる言葉遣いは慎重であってほしい」と求めた。

全国で26万〜40万人が利用しているという。小宮山厚労相は「胃瘻で命をつないでいる患者もいる」と患者や家族の気持ちに理解を求めた。

「胃ろうで生かされている」人も、社会的には存在が薄くなっていても、生命体としては生きている。胃ろうによる栄養補給をやめてしまうと、生命体としての命はしばらくして続かなくなる。その決断をするのは、だれがするとしても、とてつもなく重い。