葛藤する心

どんなことをしても結局は自分のことを思っている自分がいて、それがすごく嫌・・・皆の嫌がる仕事をしては、「やってあげてる自分って素敵」とか「皆からの評価が良くなる」とか、べつにそれを目的にしたわけではなくても浮かんできて、それがすごく嫌で嫌で、苦しみ、今でもそんな自分が嫌になる瞬間があります。

ボランティア的な地域のことを考え、ゴミ拾い・除草などの町内の公園・広場・道路などの清掃活動をしています。ある人に言われたことだが、「どうせするなら黙ってした方がいい。」と・・・良く考えて見たのですが、善行は確かに黙ってした方が、訴える力はあると思います。何か自分が他人に認められたい気持ちがあることに気がついたのです。

でも最近は、人間である以上は仕方のない?どんな人間であっても、自分が一番に決まっています。その人生は全てその人主観で構成されていて、その人にはその人の気持ちしかわからなくて、人生の中心はその人なのだから仕方のない。

それは悪いことではない、心のどこかに高慢な影を抱えながら、それでも確かに誰かのために行動しました。大事なのは後から自分が何を思ってしまうかではなくて、それをした一瞬の間に自分が思ったことや、した内容だと思う。

大切なのは、人間は私利私欲にまみれていますが、それでも誰かのことを思って行動できる瞬間があるということです。誰かのために泣けるし笑えるということです。

例えそこに私利私欲があってとしても、その瞬間には誰かは誰かの笑顔に救われ、誰かは誰かと泣くことで救われるんです。それが大事なのだと思います。

私は自分自身を「素直ではない、ひねくれ者」と思うことがあります。むかし親に「お前はひねくれた性格だ」と言われたことがあり悩んだ経験があります。

70歳を過ぎても、時々自分はひねくれ者と自分自身反省することがあります。ひねくれ者は、逆に言えば、常識にとらわれた、他の方々とは、違った視点でものを考えられる天賦なのかも知れない。

だから、素直で純真無垢な心で行為をするということが出来ないという「悪い性格の持ち主?」などだと反省しています。