曹洞宗本山の永平寺と総持寺のこと

この度、義兄の葬儀は、八王子市戸吹町の曹洞宗の桂福寺(中央霊園)住職・・・加藤智昭導師で執り行われた。

曹洞宗というと道元禅師が開祖で福井県永平寺と鶴見の総持寺と二つある。永平寺は、寛元元年(1243年)曹洞宗の開祖・道元が越前(福井県)に移り、大仏寺を建立した。これがのちの曹洞宗大本山永平寺となる。

総持寺は、道元から数えて4代目の瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)が54歳の時に、諸嶽山 総持寺として名称を変えて開いたお寺である。その後曹洞宗は保守的な永平寺派と革新的な総持寺派に分れ、両寺を本山として民衆の間に深く浸透していきた。

導師の法話があり、内容は、道元禅師はこれこそがインドの釈尊以来代々の仏祖が受け嗣いできたものとしている。十六条の仏戒、謂く三帰・三聚浄戒・十重禁戒。此の十六条戒。

その十重禁戒とは・・・
第一不殺生戒・・ 殺してはならない。
第二不偸盗戒・・ 盗んではならない。
第三不貪婬戒・・ 淫らなことをしてはならない。
第四不妄語戒・・ 悟ったと嘘をついてはならない。
第五不古酒戒・・ 酒を売って(買って)はならない。
第六不説過戒・・ 他人の間違いや欠点をあげつらってはならない。
第七不自讃毀他戒・・ 自らをほめ、他をそしってはならない。
第八不慳法財戒・・ 物心両面にわたり、他に施すことを惜しんではならない。
第九不瞋恚戒・・ 怒りを抱き、自分を失ってはならない。他人の謝罪を容れる。
第十不謗三宝戒・・ 仏法僧の三宝を謗り、不信の念を発してはならない。

私は、永平寺総持寺は、お参りに行ったことがあるが、住職の法話で改めて道元が開祖された曹洞宗の教えを知った。

曹洞宗は、謹厳な修行で知られた道元の印象が強いことから、禅のみに徹する修行仏教のイメージがあるが、歴史的に見ると必ずしもそうともいえない。修行道場としての永平寺は、道元の壇越(だんのつ)=(布施)であった波多野氏の援助で成り立っていたが、その外護から離れると、たちまち運営が行きづまるようになった。

道元の教えと民衆に受ける革新派の第三世の徹通義介などと争うようになった。最終的には義介の弟子である瑩山紹瑾が第四世地位に着き決着した。

これ以降曹洞宗でも神人化度説話(土地神などが仏教的救済を僧に依頼する説話)による布教や密教的な祈祷を取り入れるようになる。これが地方の有力者や民衆の支持を得て、教団は瑩山が建立した能登の永光寺、総持寺を中心に大いに隆盛した。

しかし、法流は永平寺総持寺と分かれ、交流はしつつも、長らく本末を争うことになった。江戸時代になると幕府の裁定によ両寺を本山と定められ、解決を見た。

その後は宗統復古運動など、何度かの内部改革が図られた結果、現在の釈迦如来道元、瑩山の両祖を信仰の中心とし、永平寺と1898年の火災で能登から神奈川県鶴見に移転した総持寺を両大本山とする体制が成立。今も禅の普及に力を入れている・・・『武村鏡村「仏教」。』