無心ということ

最近、ボランティアなどをしながら、フッと考えることがあります。今行っている自分には、もっと他にやることがあるのではないのか、大事な時間を、このことに費やして、将来後悔しないだろうかとか、「無心」になることになれば、後悔はしないだろうと思うし「幸せ」なことだとか・・・

そして心に迷いがないがない、人生を送っていかねばと考えています。さて、無心とは・・・「無心」というと、私は「我を忘れて寝食を忘れて打ち込む」ということを思い浮かぶのですが・・・

何かに熱中すると、いつの間にか我を忘れて打ち込んでいることは誰でも経験すると思います。そこに生きがいを見出す人もいるでしょう。「無心」になれるということは、幸せなのだと思います。

無心になるという状態では「自我」というものが、薄れている感じがします。ところがこれは結構矛盾をはらんでいて、無心になっている間は自我が満足している状態ですが、一方でその間自我を意識していない気がするのです。

無心が、ほぼ無我夢中の状態だとすると、文字通り無我になっています。つまり、自我が満足している状態でありながら、実は自我を意識していないという矛盾があるのです。

自己満足している時は、自我を意識していない・・・無我夢中になっている間も確かに、自己を放ち忘れています。ところが、色々と考えたり悩んだりしますが、どうもそれが苦痛にはなっていないところが、普通に言う悩みとは違うところです。

どこが違うかと言えば、その悩みの中に「自分」という要素が入っていないことです。考えてみれば、自分というものを計算に入れずに考えたり悩んだりすることは、そう苦痛ではない。

自己を計算に入れずに考え悩むことは、苦痛ではない・・・無心になれることが幸せな状態だとすると、無我夢中になれることは、そんなにあるわけではないので、出来れば普通に無心になれれば良いことになります。

この「普通に無心になれる」ことを仏教的な無心だと思います。では、どうやったら普通に無心になれるのか・・・仏教的には自己を捨てることになることは、頭ではわかっていても自己を捨てることはなかなか困難です。

でも無我夢中になっている状態では自己を捨てていますが、この違いはなんでしょうか。実は無我夢中での無心の状態と、仏教的な無心の状態では、似て非なる状態なのです。