人間愛


宮沢賢治の詩に「アメニモマケズ」がありますが、この作品の中には、自己犠牲の精神が歌われていると思います。

戦前の小学校の修身(今でいう道徳)の教科書に載せられて、戦後になっても国語の教科書に載っていて、私も暗記で覚えさせられました。雨にも負けぬ丈夫な体を作り、一日に玄米四合と粗末なおかずを食べ、人々のために献身的に尽くしたいという賢治の志は、軍人の手本にもなるものだったのでしょう。

自己犠牲とは、目的達成のために自己の利益や時に生命までも捨てて挑んだり行動したりすることである。ただこれは『自分さえ我慢すれば良い』と同義だとも考えられ、これが過ぎると自己を潰してしまうといわれる。(ウキペディア)

自分を犠牲にして、人のために尽くす人がいます。身近なことでは、親が子どものために自分を差し置いても子どもを守ったり、優先したりします。

人のために、自分を犠牲にしても対象人物を救う・・・人としてとても尊い行為だと思います。自分のことよりも、人のことに思いを致すということは、人間として、とても美しい行為です。昔の日本には、このような行為は珍しくなかったようです。

ちょっと話は違うが、最近、JRの南浦和の駅で、ホームと電車の隙間に挟まれて、身動きできない女性を駅員のとっさの判断で、乗客40人ぐらいの人を降ろし、みんなで電車を押して傾けて、無事救出した、ニュースで世界各国から高い評価を得たという。

あるアメリカ人がいう。アメリカだったら、そんなの見てみぬ振りをする人が多いという。武士道や日本の精神で、人として最も大事なこととして教育があるからではないでしょうか。

それと「人間愛」が強く感じられます。「人間愛」とは・・・

「人間愛」とは何か? 元文教大学学長水島惠一「大学改革と文教大学の今日」記されています。

人間愛とは、人間性の絶対的尊厳と無限の発展性とを確信し、すべての人間を信じ、尊重し、あたたかく慈しみ優しく思いやり、育むことである。

人間愛とは閉鎖性を打破し人と正面から向き合い付き合っていく普遍的な愛の精神である。また、すべての人間の可能性を信じ尊重しあたたかく慈しみ、優しく思いやり、育むことによって生まれる。すべての人間は伸びる可能性を持っているということ信じる。

人間愛は、本能的な愛を基盤には持っているが、よき教育環境の下で育ち、学習されるものであり、それこそが幼児教育以来の真の人間教育の課題だといってもよい。

そしてさらに、こうして学習された愛・人情に加えて、実在的な共同存在性にも我々は目を向ける必要がある。

そこにこそ、かけがえのない我ー汝の二人称的関係が成立する。開かれた人間愛は、誰に対しても成立する。それは相手がどのような特殊性や障害を抱えていようと、異文化のもとでの理解し難い人であろうと、その一人一人の存在を大事にしようとすることである。

ろうそくは身を減らして人を照らす・・・(自分のことは犠牲にして、他人の幸福のためにつくすことをいう。)