公園のゴミ犬の糞でこまっています


桜が満開になりました。

私たちのまちの片倉城跡公園・時田公園・片倉時田町の広場があります。

多くのお花見のを楽しむ人で賑やかです。近くの幼稚園の園児が、先生に引率され公園で、楽しそうに遊ぶ光景も見られます。犬を連れて散歩しながらという人もいます。

心ない人に困っています。

八王子市公園課・ゴミ減量対策課・ゴミ相談センターなどに相談、看板を取り付けていただいていますが・・・

犬の糞・ゴミは持ち帰りです。

飼い主がしたふんの放置が地域の住民に多大な迷惑をかけていることを知っていますか?

○ 自分の家の前に犬のふんが放置されていたらどう思いますか?
○ 道を歩いていたらうっかり犬のふんを踏んでしまったらどう思いますか?
○ お子さんと公園に行ったとき、犬のふんがあったら気持ちよく遊べますか?

飼い犬のふんを放置し、後始末をしない無責任な飼い主の行為が、周囲の人を困らせたり不愉快な気持ちにさせています。

飼い主のみなさんの心がけと協力があれば犬のふんの問題は改善できます。

「他人に迷惑をかけない」ということは犬を飼う上での大切なマナーです。飼い主の皆さん「持ち帰り」を守ってください!

安心・安全な町にしよう

地域住民の皆さんが、安心して安全に暮らすことができる地域社会は、警察・消防・市などの行政機関だけで実現できるものではありません。

現在は、地域社会は、昔からの戸建てに比べて、マンションであったり、ワンルームマンション・アパートに占める住民が以前と比べ多くなってきています。そして、価値観も違ってきています。

日ごろ地域の、コミュニケーションについて、考え方も当然多様化してきています。

いざと言うときの、自然災害・防犯などの備えは・・・向こう三軒両隣りの普段からの心配りが大事あるということは言うまでもありません。

そして、地域住民の皆さん、事業者や土地建物などの管理者が、一体になって・・・

「自分の安全は自分で守る」「自分たちの地域は自分たちで守る」・・・

という意識をもって、日常生活でできる安全対策を進めるとともに、環境整備や安全活動に取り組むことが大切です。

コミュニケーションを図る場としては、町内会主催の盆踊り・町の清掃ディ・川の清掃ディなどに積極的に参加することです。そして月並みですが挨拶の励行です。

また私は、割れ窓理論の通り、第一に地域の美化であると思っています。

私たちの町は幸い豊な自然が残っています。歴代の諸先輩が引きついでこられた豊な自然を享受しています。これからも美しく豊な自然を次世代に引き継ぐ責任があります。

子どもは大人の行動をよく見ています。大人の一人ひとりが環境美化の意識を持って、子どもの模範となる行動を取っていただきたいと思います。

私たちの町も少子高齢化が進んでいます。そして独り暮らし、空き家が増えてきています。それらの状況もよく認識し、安心・安全のまちづくりは、地域の住民一体と取り組まねばならないと考えます。

生きがいについて

「生きがい」とは・・・

一般的には[生きる喜び」「生きる張り合い」の基になる事や物をいうことで、生きがい感は幸福感のひとつと思います。

人それぞれで、「お金」・「責任」・であったり、人の役に立つことに、やりがいを感じる人もいるでしょう。

直接人から感謝されたり、喜ばれることで、人の役に立っていると実感できることに喜びを感じる人もいます。

誰かの役に立っている実感する・・・衣食住も、教育も、医療も大事です。でもそれと同じくらい、いやそれ以上に、生きがいは大事です。

好きなことや、得意なことを、仕事にし、その仕事で、きちんと生活していけ、かつ誰かの役に立っている実感があること、そして仕事をした相手から感謝されることです。

生きる中で嬉しいことや、喜びを見つけ、ただ苦しい修行をするだけの場ではなく・・・「喜びの場」であるとも言えます。さらに、感謝で物事を見られるようになると、「感謝の場」であるとも思えるのです。

やりたいことを仕事に出来る・・・そしてその仕事で人の役に立てる社会・・・また人から感謝される・・・私は、それが最高の幸せと思います。

それこそが理想の社会ではないでしょうか。人には、必ずいるべき場所があり、やるべき事がある。私にはそう思えてならないのです。

「修行の場」と固定的に考えなくてもいいわけですし、「喜びの場」でなければならないということでもありません。「感謝の場」でなければならないということでもない訳です。

ただ、どのように受け取ったら、本当に生きがいのある、人生になるかという点で、違いがあるということです。

私たちは、そういう捉え方、自身の価値観を持つことによって、人生をしっかりと把握していくことが、大事なのではないかと思います。

環境美化は続けることです


いろいろな環境問題が起きている現在、21世紀を生きる私たちは、未来の地球のために、どんなことをしなければならないのか、真剣に考えなければいけません。そのためには、今、自分が生活している地域の現状をしっかり知る必要があります。

私は長こと、ゴミ拾いをしていますが、今までこんな物まで「何にこれ〜」と言うものまで捨てられています。例えば、犬・猫の死骸、川鵜の死骸、羽毛の布団、お米10キロ位の袋、タイヤのない自転車、冷蔵庫、コピー機、猫のトイレに使った砂などなど…常識では考えられないものです。そして、タバコの吸い殻のポイ捨てが相変わらず多いです。

また、下水道の処理がしていない家から河川に放出していたりしていたりしていました。これは、八王子市の担当課の連絡し処置をお願いしました。環境の保持は大切な事です。「割れ窓理論」からも、地域住民の目が大事です。

地域社会が安心・安全で、住んで良かった町にするには、住民の一人ひとりの環境に対する心がけ、いわゆる規範意識の高揚が大事です。

そして、すべての人が安心して暮らせる地域づくりを進めるためには、さまざまな人のさまざまな暮らし方があることを前提として、性別、年齢、障害、国籍などにかかわらず、みんなが地域社会の一員であることを認識していく必要があります。

そのためには、ふだんのふれあいの中で、気軽に助け合いができる「共に生きる」仕組みづくりを進めていくことが大切です。

今までは・・・人と人とのつながりにより地域社会が活性化していた頃は、「お互いさま」という精神が息づき、地域のあちらこちらで気軽な助け合いを目にすることができました。しかし現在では、その地域社会の力を感じさせる場面が少なくなってきています。

核家族化や少子高齢化の進展は、八王子市でも例外ではありません。また、日中、市外に通勤、通学している人が多いことも、人と人とのつながり、地域とのかかわりが希薄化している大きな要因であると考えられます。

大事なことは、子どもの公衆道徳の教育です。公園などの公共の場での遊びには、ルールがあります。ゴミ・空き缶・空き瓶・ペットボトルは、持ち帰りが基本です。お母さん躾け・学校の先生の教育、地域の大人(タバコの吸い殻ポイ捨てはもってのほかです)の指導が大事です。良い環境づくりを理解し、みんなで住みよい町づくりが大事だと思います。

本当の幸せとは・・・

本当の幸せとは何でしょうか…

精神的豊かさなのです。お金ではありません、人とのつながりを通して得られる心…愛情、愛着、友情などです。幸せは、心で感じるもので、心があってこそ、本当の幸せを感じます。

人とのつながりを通して得られる心に触れたとき、人は深い満足感を抱きます。人から慕われたり、愛されたり、尊重されたりするとき「幸せだな」と感動し、深い満足感が得られるのです。

「幸せだから感謝するのではない 感謝できることが幸せである」

人生は、思いどおりにはなりませんし、そんな中で幸せを感じることができたならば、感謝する心が湧いてくるということがあるのかもはしれません。ですが、感謝することができるというのは「生きている」ということです。


生きているということは、誰かに、何かに支えられていてこの瞬間があるということです。すなわち、日常生活の中で感謝することができたという中に自分自身を、大切ないのちを知らされるのです。

幸福とは・・・

考えさせられる「幸福」とは…

「世界で最も貧しい大統領」として知られる南米ウルグアイホセ・ムヒカ前大統領(80)が5日、初来日しました。

ムヒカ前大統領の言葉…

「貧乏なひととは、少ししかものを持っていない人ではなく、無限の欲があり、いくらあっても満足しない人のことだ。」

「発展は幸福を阻害するものであってはいけないのです。発展は人類に幸福をもたらすものでなくてはなりません。愛情や人間関係、子どもを育てること、友達を持つこと、そして必要最低限のものを持つこと…これらをもたらすべきなのです。

「人生は短いし、すぐ目の前を過ぎてしまいます。命よりも高価なものは存在しません。そのお金を貯めるための人生の裂いた時間で買っているのですよ。。。」

ムヒカ氏は昨年退任するまで5年間、大統領公邸に住まず、給与の9割を貧しい人々のために寄付し、月額1000ドル(約12万円)ほどで生活した。80年代から今に至るまで、首都郊外の農場で質素な暮らしを続けている。(日刊現代

軽井沢町のホームページ

http://www.town.karuizawa.lg.jp/www/contents/1451282160236/index_k.html

私たちの歩んできた道は正しかったのでしょうか

日本社会は、より効率的に、より速く、より多く、より便利に、の一辺倒でまっしぐらに歩んできました。その結果、今日の繁栄を勝ち取り、生活の利便性が高まるとともに多くのモノを手に入れることが出来ました。これは喜ぶべきことであり、先人たちの努力の結晶であるわけです。

しかし、一方で、家には入らないくらいのモノが溢れ、会食等ではたくさんの食べ物を残飯として廃棄しています。また、気の遠くなるような長い時間によってつくられた石油などの資源を一夜で使い尽くし、その上に私たちの豊かな生活が成り立っています。

自己中心的な考えから抜け出る

「モノ」だけではありません。東日本大震災では、世界中から称賛された助け合いの精神は、私たちの日常に生きているでしょうか。

自分だけ良ければ、とした考え方に冒されてはいないでしょうか。子どものいじめ問題などにも、その影響が出ているように感じます。私は、現在の日本社会は他人の痛みを自分の痛みとして感じ取る力が弱まっているのではと危惧しています。

日本を指して、自分のことしか考えない子ども社会であるという本が発刊されているくらいです。

そして自己責任です。自己責任という言葉が死語になりつつあるのでは、と感じるくらい責任を他者に押しつけている場面を多く見受けます。世の中に起こる問題すべて他人のせいと言わんばかりに声高に主張する姿を見ると、そこに市民としての義務の精神を感じ取ることはできません。

教育現場もしかりです。どこかの学校で話題になった、「かけっこを手をつないでゴールする」的な考えが横行しますと、子どもたちの中に養わなければならない、「健全な競い」や「たくましい精神」という成長を奪いかねません。無菌室で育った子どもたちのいく末は、ここで言うまでもないことでしょう。

すべての事柄は表裏一体であり利害得失は同じということもありますが、修正を求められていることは間違いないものと思います。

幼児期に身に付いたことが常識に

私は毎日、道路・公園などのゴミ拾いを行っていますが、ゴミのポイ捨ては一向に減りません。タバコの吸い殻、弁当の空き袋・ペットボトル・空き缶など、今日も袋一杯になりました。

特に困るのは、ビン(ドリンク剤)を石垣で割る(遊び?)のです。公園で、昨日・今日と二日続けてありました。粉々になり砂に散らばってしまっているので、拾うが大変です。大人のタバコの吸い殻も砂にまぎれています。

公園は、まちのお年よりから、幼児まで、使うのです。もし幼児が手に怪我をしたら…と思うと、心が暗くなります。ちゃんとゴミは持ち帰る児童もいるのです。

どうして、ゴミをポイ捨てするの?

あえて言うなら、幼少期の刷り込み(しつけ・教育)と育ってきた環境の影響でしょうか…。

森信三先生の、ツの付く年までに躾けることの大切さを痛感するのです。「あいさつをする」・「ハイと返事をする」・「靴をそろえる」…の三つを9歳までに、完璧に覚えさせることです。

「三つ子の魂百までも」ではないですが、ある一定年齢までに植えつけられた知識や経験は理由のいかんに問わずその人の常識になります。

ある学校の伝統的なルール

ある中学では、修学旅行などのイベントで集合した際に自分の周りにあるゴミを10個拾うというルールがありました。

最初はめんどくさいと思いましたが、やっていくうちに普通の事だと感じるようになり、最終的には率先してゴミを拾っていました。

人間は、ある一定期間特定の環境下におかれると、その環境下で行ってきた行為について常識と思ってしまうようです。これが普通の行動と、身体に浸み込んでいるのです。

この影響は大きく、社会人になった今でも休憩中に、ふと近くにあったゴミを拾ってしまう事があります。子を持つ、ご家庭の親御さんに、“しつけ”について、考えて欲しいものと思います。