挨拶をしよう
最近、自治会や町内会などの活動が活発におこなわれていない地域が増え、近所づきあいは昔よりも希薄になってきていると言われています。
自分が住んでいる地域内であったら、挨拶しましょう。
挨拶の効能…
ふだん見かけない人に挨拶すると、顔を見られることにより、防犯になります。
また、二度三度会って、挨拶から、ご近所さんと顔見知りになっていれば、次に顔を合わせたときに、会話がはずみます。
そして、どこのパン店さんが美味しいといった情報交換だけでなく、頂き物をおすそ分けしたり、家族ぐるみで親しくなったりすることもあります。
助け合いの精神の醸成…
よほどの緊急性がない限り、知らない人に助けを求めたり、何かをお願いしたりはできませんが、顔見知りがすぐ近所にいれば、「天井の電球の交換をしてほしい」「急病で寝込んでいるので、外出するついでにバナナを買ってきてほしい」といったお願いもしやすくなります。
たいがいの人は、知らない人には自分の悩みや不安を話さないでしょうし、話されたほうも戸惑います。
困ったときにまわりの人や社会にサポートやSOSを要請しやすい環境が整っていなければ、万が一のセーフティネットは、いくら制度や仕組みがあっても役に立ちません。
元気なうちは、近所付き合いや地域住民との人間関係は煩わしいと思っても、いざ困った時には頼る人がいないという事態に直面する可能性は誰にでも起きます。
「地域コミュニティーの復活」というと抵抗があっても、「一定の距離を保ちながら、近所の人たちとつながりたい」と考える人は少なくないはずです。
こうした緩やかな関係があることが、住民の安心や安全につながります。そして、笑顔が素敵な人が多くなります。
「住民全ての間で困ったときに互いに助け合う」という関係は、挨拶をする、顔見知りを増やすといった、今日から簡単にできる努力から始まるのではないでしょうか…
時間(とき)の流れ
年をとったせいか…時の経つのが早く感じられて仕方がないです。
アッという間に…一日…一週間…一ヶ月…一年です。スケジュールで一杯の人……そして毎日が何もすることがなく、朝起きてさーて、今日は何をして過ごそうか、考える人もいるでしょう。「時は金なり」で、一日を有意義に使いたいものです。
西洋に伝わるナゾナゾです。
「一本の木に十二の枝
どの枝にも四つの巣
どの巣にも七つの卵があります」
さーて、この木はなんでしょう?
答えは「年」で、十二の枝が「月」、四つの巣が「週」、七つの卵が「日」だそうです。
このナゾナゾの深く意図するところは一日を卵にたとえていることです。卵は壊れやすく、腐りやすいものです。だからこそ大切に扱わなければいけません。一日も同じです。
しかし、自分を振り返るとどうでしょうか?私自身、昨年は卵をいくつ壊したでしょうか、たぶん数え切れないほどの卵を壊し腐らして、日々を無駄に過ごしたかもしれません。
私たちは時計を使って時間を計りますが、心理的な時間は必ずしも時計の時間とは一致しません。
楽しいことをしているときは、瞬く間に時間が経ちますが、嫌なことや、また病気などで辛く苦しいときには、一分が一時間にも感じられるものです。
さらに、年を取るほどに一日が短くなっていくことは多くの人が感じていることでしょう。私たちの感じる時間の流れは人によって千差万別です。
充実した一日に…
日々の生活でも、昨日の続きは今日であり、今日の続きは明日であります。一日の生活を振り返って、明日は、今日より充実した一日にしたい…と考えなければと思います。
「果報は寝て待て」では、童謡にあるように「待ちぼうけ」のようになってしまうと思います。日々の生活を充実・満足させるためには、やはり目標を決め、そこにいたる計画をしっかりと見つめてこそ、「充実した日々」があることになります。
一日の生活の中に自分自身にノルマを課す。それを続けるために、一日、一週間、一ヶ月、一年間の目標に対する計画を立てる…
時間を使うのは他でもない自分自身であります。主体をどこに置くか?今年一年を、時間に使われるのではなく、その時間を使い切る毎日でありたいと思います。
子供の大事な道徳教育
先日、私がゴミ拾いをしている途中に公園で、子どもたちが遊んでいる近くのベンチに空き缶・ペットボトル・パンの空き袋が見えました。
フェンス越しに、大声で…
「そのゴミひろって、私のレジ袋に入れてもて来てちょうだい」いったら
「はい」といって三人の男の子が競争するように走って持ってきてくれました。
「ありがとう…公園はみんが使うもの…いつもあとの人が使う人のことを考えましょうね」
「はい分かりました。」…
とても素直に、爽やかな気分になりました。
これが本当の「道徳教育の実践」だと思いました。
子どもの「道徳教育」は、家庭・学校・地域でと言われていますが、それぞれの事情があって、なかなか思うように教育がされていないのが実情だと思います。今大人たちが、道路・公園などに平気で、ゴミのポイ捨てをしています。
「道徳教育」が子どもの頃に学んでいなかった?だから自分の子どもにも教育をしていない?のではないのでは…と思います。
そして、自分の子が悪くないと先生に文句をいう、いわゆる、自己中心的かつ理不尽な要求をする親…「モンスターペアレント」が横行まで出現するのです。
人間としての規範意識の醸成
子どもが年を重ね大きくなるにつれて、多くの人と出会います。そして社会人として巣立ちます。人間としての「規範意識」を備えて、立派な日本人…として世界にまで羽ばたく…夢を持ってもらいたいです。そして「人間として正しい生き方」をして欲しいと思います。
「人間として正しい生き方」…稲盛和夫氏
「小学校の道徳のようなことをいう」と笑う人がいるかもしれません。しかし、その小学生のときに教わったようなことを、私たち大人が守れなかったからこそ、いまこれほどまでに社会の価値観が揺らぎ、人の心が荒廃しているのではないでしょうか。
いま、子どもに向かって堂々とモラルを説ける大人がどれほどいるか。これはしてはいけないことだ、あれはこうすべきだと、明確に規範を示し、倫理を説ける。そういう識見と精神、重厚な人格を有した人物がどれだけ出てきたか。
それを思うと、私なども忸怩(じくじ)たる思いにとらわれないわけにはいきません。
正しい生き方とは、けっしてむずかしいことではないはずです。子どものときに親から教わった、ごく当たり前の道徳心 ― 嘘をつくな、正直であれ、人をだましてはいけない、欲張るな ― そういうシンプルな規範の意味をあらためて考え直し、それをきちんと遵守(じゅんしゅ)することがいまこそ必要なのです。
町をきれいにしよう
「美しい町にしようよ!よみんなの好きな町だから…」
歩道に散らばるたばこの吸い殻、植え込みの陰の空き缶、公園に残されたファスト・フードなどの包装容器…これら「ポイ捨てごみ」の散乱により、町の美観が損なわれています。
「ポイ捨てごみ」がはらむ問題は、町の美観にとどまりません。たばこのフィルターやプラスチック、金属類などの分解されにくい材質のごみが、動物の誤食や、からまり以外にも自然に影響を与えていることはいうまでもないことです。
「ポイ捨てごみ」対策は、まちの美観、自然に与える影響の両面から、環境との共生をめざす八王子市の町づくりにとって重要な課題となっています。
捨てられたごみを掃除する責任は、まず第一に捨てた本人にありますが、誰が捨てたのか分からず、放置されてしまった場合は、その場所(土地・建物等)の所有者または管理者が責任を持って清掃しなければなりません。
このため所有者または管理者にとっては、その土地・建物等を清潔に維持するための費用が必要となります。
八王子市や、国(都)が管理する道路や河川の「ポイ捨てごみ」(公園・河川・国道)の清掃のために使われている経費は、私たちの税金が使われているのです。
「一人ひとりの心がけで住んで良かった町になるのです。」
1…私たちの町を美しくするには…先ず各自が、自分の家の周りの清掃することです。
2…集合住宅では、ゴミの集積場所は当番制でしっかり責任を持って行う。スパーやコンビニなどの事業主は、周りの道路などのと植え込みにも目くばせし処分することです。
品格もゴミと一緒にポイ捨て…
「ゴミをポイ捨てする人、品格もポイ捨て…」立派と思える人が、平気でタバコの吸い殻を捨てて行くのです。
まだまだ低レベルの人格と思うしかありません。あなたの何気ないタバコのポイ捨ては、多くの人が迷惑を感じているのです。
私の住む町は、八王子市ですが、全市内歩行禁煙になっていますが、一向にタバコの吸い殻のポイ捨てが減りません。
誰でも美しい町に住むことは望んでいることでしょう。そして安全で安心に暮したいでしょう。「私一人のタバコの一本ぐらい」と思っているとしたら、認識不足です。「子どもたちはあなたの行動をみていますよ!」
勇気を持って、ゴミ拾いをしよう。
ゴミ拾いの活動をするのは少し恥ずかしいし、緊張する。そのように考えている人もまだ多いです。しかし、自分が一歩勇気を出してゴミを拾うことで周囲の反応が変わってきます。
普段道端にポイ捨てをしている人も、一生懸命ゴミ拾いをしてくれている人の前では捨てることができません。そして街がきれいになっていくことで、ゴミが目立ちます。
きれいな町に自分からゴミを捨てる人は少ないです。常にきれいな状態を保っておくことで、ポイ捨てをする人は減っていくものです。
人前でゴミを拾うのは少し照れくささもあります。しかし勇気を持って一歩踏み出すことで、街は大きく変わっていきます。自分の暮らしている町や公園をきれいにすることで、多くの人が笑顔で生活することができるのです。
我が強い人
人の気持ち・事情を察すること…
グローバル化・情報のスピード化・合理的な考え方で、今の世の中にあっては、「優しさ・思い遣り…」ある人間関係は、“おなざり”(その場しのぎ)になっているようです。
人はそれぞれ考え方・価値観が違います。その価値観の違いを、「できる限り認めあう心」が、社会を構成する重要なポイントの一つであると思います。
価値観の違い?性格(我が強い人)…「我」が強い人(困っています)
世の中、「我」が強い人・自己中主義の人が、多くなってきたように思います。協調性がないので、地域の共同作業・ルール作りには、周りの人から、疎まれることが多いようです。
「我」が強い人に限って、初めて知った情報や、知っていた情報、両方に対して人から聞き入れた時に「でも」と批判からの言葉で返事をし出します。
こうらしいよ?の返事が、「でも、○○はこうだから、こう見たいだよ」と、相手が知らない情報を一生懸命頭の中で探り出し、言葉にしていることが多いです。
また、別の使い方としても、自分の間違いに対して、認める前に、「でも」からの言い訳をしたりします。「でも、私の考えとしてこうしました。」と言うように、ただ返事をするのではなく、必ず理由をつけてくることが多いです。
自己主張している自覚がない
これが一番困った特徴かもしれませんが、我が強いという自覚がないのです。誰もが程度の差はあれ、自分が周りに迷惑をかけていないか省みるものですが、我の強い人ほどそれがないのです。
それどころか、自分は他人に譲ってばかりと思っているのです。「私って、自分の意見を主張するのが下手なのよね」など、実情と違うことを言い出す人すらいるのです。
困るのは、知り合って間がないときだと、こちらはそれを信じてしまうこと。「あれ、おかしいな」と違和感を覚えたら、自分の直感を信じて、少し冷静に相手を観察する余裕を持ちたいものです。