価値観の多様化の功罪

「価値観の多様化」・・・功罪
誠実、責任、正義を価値と思わない人はいない。逆に不誠実、無責任、不正を価値と思う人もいない。人を殺してもよいとか、他人の物を盗んでもよいとか、そんなことを認め合おうと主張する人はいない。

そもそも「価値観」とは、物事を評価する際に基準とする、何にどういう価値を認めるかという判断である(大辞泉

誰もが「大切である」と初めから認め合っているもので、「価値観の押し付け」など有り得ない。正しくは、「好みの押し付け」・「判断の押し付け」とか言うべきではない。

だから「好み」は自由である。当然、互いに認め合うべきである。そして「好み」には、正しい・間違いとかない。そうは言っても、他人に迷惑をかけないようとする「価値観」に背くようでは困まる。

「判断」にしても、状況や立場、性格や智恵や経験によって違ったものになるのは当然である。まさに多様な判断があっていい。しかも正しい「判断」は一つだけとは限らない。もちろん、結果が出てからでないと、正しい判断だったかどうか分からないこともある。

しかし、どんな「判断」であろうと、それは周囲の者から理解されるか、共感されるか、許容されなければならない。「判断」を一任されていて、結果に対して責任を負える立場ならともかく、少なくとも「判断」によって、多大な利害を伴う関係者に対しては、理解・共感・許容を得るために説明・説得する義務がある。

今、不誠実・無責任・不正な「判断」が横行している。不誠実な大臣答弁、無責任な震災復興計画、ガレキ処理問題(他県への協力要請に対し住民拒否)・AIJ投資顧問企業年金資金消失問題などは言うに及ばない。

近頃の若い者は・・・苦言を言っておきながら、自分勝手な言動をしている大人が実に多いことか・・・情けない実情である。環境問題を云々する人が、道路に川に、平気でゴミを捨てる輩がいる。

昨日公園で、犬を連れて散歩していた中年の男性に、公園内は犬の散歩は困ります・・・と言ったら、いろいろ理屈をつけていたが・・・公園内に犬の糞で困り果てているのに・・・。

誰にとっても共通で普遍のはずの「価値観」が多様化しては、社会は成り立たない。