我が故郷「片倉城址」のこと

片倉城址公園の近くに代々住んでいた「片倉城」の歴史に疎い。そこで平野勝氏の2007年に東京新聞の記事あったので記し、記憶にとどめて置きたい。

八王子市の南郊、湯殿川と兵衛川の合流点西方に張り出した丘陵の突端にある中世城館の跡。城は南北朝末期の応安年間(1368〜75年)由木城から移った長井広秀構築と伝える。

長井氏は鎌倉幕府重臣大江広元の第二子時広が、出羽長井郷(山形県長井市)を領して長井を氏とした。これが始まりとされる。

鎌倉初期の建暦三(1213)年5月、付近を治めていた横山氏一族が和田義盛の乱に連座して滅亡すると、片倉一帯が広元の所領となり、長井郷から移り住んだ時広の統治するところとなった。片倉城を築いた広秀は、時広の五代目の子孫といわれている。

片倉城は広房の代の応仁のころ(1467〜69年)まで長井氏居城とされていたらしい。のち武蔵国守護代大石氏の持ち城となり、大石氏の後を継いだ滝山城北条氏照が大改造を施し、支城として城構えを整えた。だが天正18(1590)年豊臣秀吉の小田原攻めの際、豊臣勢の攻撃を受けて落城。以後廃城とされた。

現在城址は市公園として整備され、縦横に遊歩道が通じて、手軽な散策地として親しまれている。園のは入り口に静まる住吉沼は、かっては湯殿川に臨む湿地帯の一部で、城の重要な防御線だったに違いない。

沼のほとりを抜け、急な石段を直登すると、雑木林を背にひっそりと住吉神社が立つ。長井氏が城の守護神として摂津国大阪府)の住吉大社の分霊を移し祭ったのだそうだ。

神社の裏側へ回り込むように進むと本郭跡。草原になっている。本郭跡の西側には、空堀と土塁を挟んで広々とした二つの郭跡が開ける。家族連れには格好な遊び場だ。南西に丹沢連山を仰ぐ眺めもよい。春先には山腹を覆っている茂る雑木の林床をかれんなカタクリの花が彩る。

今の残る本郭や二の郭、空堀、土塁といった遺構は、いずれも氏照が改修した以後のもの。戦国城郭としての面影をよくとどめている。激しい攻防戦が繰り広げられていたであろう昔に思いを馳せながら、そぞろ歩きを楽しんだ。


                 湯殿川

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つぎの句は、片倉城址の5月の風景・・・何年前から書いたものだが、まとめてみた。

静けさや 深緑の葉に 玉しずく

水ひかり 草木が萌える 城の里


石垣に 割れ目の奥に 夏をみる


薫風は 古城の里を 巡らして


朝早く 挨拶しながら 草の道


朝靄に 片倉城址も 影うすく


古城には 松が似合う 五月雨


湯殿川 我が心にも 水澄みて 変わらぬ流れに 昔を偲ばん


匂いつつ 散りにし花が 偲ばれる 夏は緑の 繁りければ