自然の摂理を認識する謙虚さ・・・











五月の風は、さわやかで地球上の生き物が躍動し輝いている実感がする。特に小高い丘(八王子市片倉の集いの森公園)で遠くを見ていてそう思った。

この地球上の生き物は、さまざまな他の命に支えられて生きていられる。人間も同じで、誰でも、一人では生きていけない。この道理・摂理を認識する謙虚な態度こそ最も大切である。現代人はあまり気に留めようとしないばかりか、気づいていても、自分本位に行動している。

大いなる自然の道理に導かれている存在。山、森、谷、川、そのものがそうであり、そこで息づいている草木や熊、カモシカ、ウサギなどの獣がそうだ。それらは自然の恵みをあるがままに受け入れる。しかし一方で自然の過酷な試練にさらされ、しかも生きつづけることもまた道理なのである。

人間はそうではなかった。人間は常に自然を征服しようとする。それが人類の進歩であり、文明発展の歴史であり、合理主義を真理とする近代化である。そして現代の繁栄がある。ただその延長にある未来に栄光が待っているのだろうか?

この最も基本的なことが崩れ去ってしまう世の中ほど、恐ろしいことはない。最近のニュースは、原子力発電の存続・廃止の、選択を判断を迫っている。自然界に存在しない物資を生み出しその恐怖に慄いている。そして、車の大きな事故が相次いでいる、これも野放図に便利さだけを追求した歪がもたらされた、自然の摂理にそむいた行動が導いて結果だ。

信頼や信用、お互いを助け、生かし合えることを、みんな忘れてしまったのだろうか。 自分の力で生きているのだと思い込んでいる人であっても、人間は多くの人々や、生きとし生ける、さまざまな命にささえられ、生かされている。

「今生きている、生かされている」 この幸せを、喜びを実感ずる一方で・・・自然界の摂理と人間社会の発展、抜き差しならぬところにきてしまっている。人間の知恵は自然の摂理に背いた行為に対し冒涜である。