馬鹿がいなけりゃ成り立たない

「馬鹿がいなけりゃ成り立たない」とちょとやるせない思いがする今日この頃である。「俺がやった俺がやった」言いふらし自主張し、人々に賛同を得ようとする人間と、反対に人に目立たないように黙ったコツコツ仕事をする要領の悪い?人がいる。

私は「ボランティア」・「無報酬」・「自分を犠牲にして」などの言葉があるように、人のため、世のためと人知れず陰の力となって尽くしている人が貴重で、世の中よくなるのだと思う。

最近の風潮で、町が汚れているなぁー、・・・黙ってゴミ拾いをし・・・子供が悪い遊びをしているー・・・積極的に注意し・・・人を侮る悪い噂を流す人がいれば・・・つまらないから辞めなさい。など、人が嫌がることをする人が少なくなった。

余計なお節介?はしない。関わりたくない。見てみぬ振りをする。そんなことする余裕などない。自分が生きるためにはそんなことにかまけていられない。という人が多くなったといことでもある。

私は、最近「絆」という言葉が世の中に流布しているが、本当に口では言っているが行動に移せない・移さない人間が多くということだ。したがって、そんな余計なことをする人間が少なくなったと思う。

30〜40年前をかえりみると、名物人間がいた、横丁の怖いお爺さんが子供の悪遊びに怒って注意したり、また、お節介お婆さんが、用もないのに隣に家に声をかけたりする人がいたっけなぁーそうして困ったことは、「おたがいさま」で、世の中楽しく暮らせていた。

町の人々は、「迷惑かけてすみません。」「いいえこちらこそ何時もすみません」そうして最期に「ありがとうございます。」のことが懐かしいく思える。

「ペスタロッチ「ガラスの破片を拾ったペスタロッチの心 」思い出した。
スイスのある町に、一人の老人がやってきました。そして、まだ舗装されていない通りで、子どもたちが遊んでいるのを、ニコニコして眺(なが)めています。そして、ときどき身をかがめては、なにかを拾ってポケットに入れています。

こういうことが、何日か続いたある日、とうとう、警官がそばにきて、「いま、なにか拾ったようだが、見せてくれないか」「これは、見せるようなものじゃありませんよ」といって見せたがらないので、いよいよ怪しいと思った警官が、手をポケットに入れそうにしたので、その老人は自分でポケットの中のものを手の上にのせました。

「なんだこれは。ガラスの破片ではないか、こんなものを拾ってどうするのかね」その老人は、子どもたちのほうを指さして、「はだしの子もいるし、ころんでヒザこぞうや手をつく子もいるので、あぶないと思ってね」あいかわらず、おだやかな語調で、にこやかにしている老人に、「もしや、あなたはペスタロッチ先生ではありませんか」と聞いた警官は、「ええ、そのペスタロッチです」と、静かに答える老人に、ふかぶかと、おわびの礼をするのでした。

これは、愛による新しい教育論を説いて、それを実践し、「教育の父」といわれた、スイスの教育家ヨハン・ハインリヒ・ペスタロッチの、ある日のエピソードです。