叱ると怒るは違う

  叱ると怒るは違う。私は子供の頃、よく父親に叩かれた覚えがある、確かに叩かれた後、考えても何故だか、叩かれた理由が分からないことがあった。それから親父は、怖いイメージがあって近寄ることをためらったことが記憶にある。

最近、公園・広場で遊び、遊んだ後の片づけをしない。子供会のママさんたちに「子供の遊んだ後行ってみて欲しい」と言ったものの・・・公衆の場を汚すのは子供だけでない、タバコの吸い殻・ビールの空き缶などが捨ててある。子供に注意することに、躊躇することもしばしばある。

善悪の分別がつかない子供は、ある行為が大人からみて「これは悪い・このことは善い」をはっきり教えることだ。悪い行為があったときには「叱る」・善い行為には「褒める」ことが大事で、「怒る」・・・(冷静さを失い感情のみになってしまう)ことは絶対に避けたいものだ。

過去に、自分の子供の躾でも大抵の場合、最初は冷静だが、だんだん怒りが増してきて、最後は何を指摘しているのかわからなくなって、反省したこともあった。

子供が「何に対して」「どう行動したから」叱られているのかを分からなければ、叱る意味はほとんどない。できれば、「どう行動すれば良かったか」まで含めて伝われば、素晴らしい叱り方となる。

問題となっている「幼児虐待」で、その理由で「躾」だという親がいるが・・・「躾ける」とは本来、礼儀作法を教えるという意味である。まったく本末転倒の言い訳である。

躾の極意は、「何が正しいか、何が間違っているか」を理解させ、次からは正しいことをさせることが、その指す意味となる。決して、間違ったことだけに集中し、体罰を与えることが躾ではない。

虐待は、「躾」を言い訳に、自分の怒りを子供にぶちまけているに過ぎないのである。躾と同様に「叱る」というのは、「悪い事をしたから罰する」のではなく、「悪い事をしたから正しいやり方を教える」という認識で行わなければならない。

その意味で、叱ることも相手の理解度を冷静に判断し、方法も吟味しながら教えていくのでいろいろ神経を使い慎重に、かつ一貫性もって行うことが大事だ。

しかし、通常の教え方では身に付かない場合もあるので、記憶に強く留めるために、教えるバリエーションの一つとして「叱る」というインパクトのある方法をとることもある。だからこそ、最初から「叱る」のではなく、何度か繰り返した時に「叱る」ことでなければいけない。

「叱る」とは、相手が自分を含めて誰かに悪い影響を与えたり、自分が指示したとおりに動いてくれなかったりした場合に、相手をより良くしようとする注意やアドバイスを、あえて声を荒げたり語気を強めたりして相手に伝える動作である。