私の戦争体験記

空襲警報の発令は、とラジオで聞き、灯火管制で裸電球のスイッチを切る。B29がいつもの伊豆半島からの侵入し、大編隊機が襲来。富士山を目指し地上をも揺るがせる轟音を鳴り響かせ東京を目指し、八王子上空を通過する、東京空襲は昭和45年3月10日は、何と325機だったそうで死者10万人だっと言う。

八王子の上空8000メートルを5〜10機の編隊を組んで東に向っているのが、片倉城址にあった探照灯部隊によって、夜空に浮かび上がって見えた。何故か高射砲の応戦はなかった?ようだ。ただ日本の戦闘機の一機が小さく見えて敵機B-29に突っ込んでいる様子が見えたが、やがて敵機と離れ見失ってしまった。

爆音は遥か東京方面に遠ざかること分かった。最大規模の東京空襲になったのだ。夜明けの前の4時頃だったと思うが東の空が夕焼けのように赤々と写しだされ、それは朝焼けとは異にしていたのは子供の私でも分かった。

八王子大空襲で(1945年8月2日)周辺の町村に対して行った時も、米軍機の落とす照明弾、地上から打ち上げられる曳光弾の光が、夜空を交錯した。防空壕の奥に家族で身を潜めるしかなかった。八王子市街から逃げてくる多くの人が通るのが見えた。

片倉の高台(丘陵)にあった片倉城址の探照灯部隊があったためか、敵(アメリカ)の攻撃目標になっていたので爆弾を落とされたがそれが、時田地区と南側の只沼地区に落とされたという。そして北側に当たる時田地区の尾川友七さんの近くの田んぼに大きな穴が出来たと、親父が言っていたのを覚えている。犠牲者は???

そして、いよいよ本土決戦という言葉が聞かれ、近くあった防空壕では危ないということだ、打越地区に近い藤谷戸(山と言っていた)に防空壕を掘った。その先の藪の中に直径20cm長さ70cmぐらいの不発弾が一発あった。信管が作動していなかっただろう。

それを私の兄が担いで家まで運び、危ないから止めろと言う周りの意見も聞かず、信管を抜き取り穴をあけて、中の火薬を抜き取ってしまった。その火薬をつまんで風呂釜に投げ込むとパーと燃え広がった。火薬は、すりゴマのようなもので、花火で遊んだ覚えがある。

探照灯部隊は、何人ぐらいの兵隊がいたかは分からないが、隣の家(現在川幡忠さん宅)が物置が大きく、兵隊が住んでいた。そして食料の煮炊きをする兵士の姿をみた。その一人の名前も覚えていて、ハルキ(春木?)と言っていた。大阪弁だったことも・・・終戦と同時に姿がみえなくなった。

軍服姿の兵士と下士官のサーベルが印象的そして、隊列・厳しい言語・整列しビンタしている光景など思い出す。