靖国参拝に思う


毎年8月15日は、政治家の靖国神社参拝で問題になっていますが、今年も羽田国土交通大臣・松原拉致問題担当大臣が参拝しました。中国・韓国では神経質になっていています。

なぜかと言えば、日本はかって戦争という過ちを犯し、東南アジアの国々を侵略し、多くの人の尊い命をうばうという過ちを犯した。1978年には東条英機元首相らA級戦犯14人を合祀しているからです。

いま、中東でシリアや、アフガニスタンなどでイスラム教国で戦争が行われています。その国で爆薬を体に巻きつけ自爆するという、かっての日本の神風特攻隊の精神で命を亡くす人が後を絶ちません。

タリバンの教官達は、聖なる戦い(ジハード)は避けられないものであり、自爆攻撃で多くの不信心者や異教徒を殺すことで、青年たちは天国に行くことができると説いています。

日本人の過去にさかのぼれば、「死の美徳」?・・・死生観があったようです。武家の意識の「事に望んで死をも厭わず」という死生観です。

死生観とは、死を通した生の見方を言います。具体的な型には・・・

■人が死んだらどうなるか?
■どこへ行くのか?
■死後や死者をどう捉えるか?
■生についての人々の考え方や理解の仕方
■生きることとは何か?死ぬこととは何か?
などがあります。

宗教や文化、又はその人の人生が成功だったか失敗だったかによっても異なります。死生観の定義自体も、見る者の視点によって異なります。民族によって死生観は当然異なることが多く、民族間の確執に死生観の相違が関わっている、とされるケースもあります。

何か他人ため?目的のため?に自分の命を犠牲にしても、いとわない強い精神が生まれるだと思います。それが宗教なのかもしれません。日本人の靖国参拝は、形に表さなくても心の奥で念じることも出来ると思うのですが・・・

伝統文化の違う民族や、過去の歴史の観点の違いで、感情の差異はあるでしょう。自分の信念で行うことは自由であるとはいっても、大所高所から見ての言動で「意」を表すべきだと思います。