幸せに生きるということ


むかし、中学校の社会の大橋先生の言葉を今も忘れない。それは「一日生きられて、不満はあっても、感謝しなければいけない」と、いわれた言葉です。

後期高齢者となって、今年の夏の暑さで体力の衰えを感じ、一日一日を生きるにも辛さを感じるようになりました。そして、つくづく健康のありがたさをを知る毎日です。「生きる」ということの思いと人生観が、以前と変わって来たように思います。

「吾唯足知」(われ ただ たるを 知る)

幸せに生きるということ・・・京都の龍安寺の“つくばい”が有名です。誰もが幸せでありたいと願うのは当然のことです。それは「現状に満足できること」だという事です。

不幸な人や不幸を呼び寄せてしまう人というのは、「今よりもっと恵まれたい」という欲望に
駆られてしまっていて、今に感謝するという気持ちを忘れてしまっています。

現状維持をしようというのではありません。今こうして生きているという事実に感謝し、その幸福を実感してからさらなる発展や成長をしていこうということです。

考えてみると、中学の先生の言葉と「吾唯足知」同じだと思います。そして、「日々是好日」をかみしめて生きたい。

実篤の格言・・・

『まかぬ種子は生えぬと言うが、我等は不幸の種子をまかず、幸福の種子をまくように注意すべきである。』

『自分でも何かのお役に立つのだ。このことは喜びである。この喜びは自分の一生が、無意味でないことを示している。このことを幸福に感じるのである。』

『よき友を持つものは、自分の方でもよき友に、なれるものでなければならない。自分だけが得することは、不可能である。』