無心に生きる

何時の間にかこんなに年をとってしまった。小さい時に夢中で遊んだ友達や、もう消えてしまった原っぱ、40年間勤めた会社でお世話になった人、押し合いへし合い乗った通勤電車、私は子供時代・通勤時代を、とても懐かしく思う。

おそらく一番懐かしいものは、あの頃無意識にもっていた時間の感覚ではないだろうか。過去も未来もない、ただその一瞬一瞬を生きていた、もう取り戻すことのできない時間への郷愁である。

過去とか未来とかは、人間が勝手に作り上げた幻想で、本当はそんな時間など存在しないのかもしれない。そして人間という生きものは、その幻想から悲しいくらい離れることができない。

それはきっと、ある種の素晴 らしさと、それと同じくらいのつまらなさをも内包しているのだろう。まだ幼い子どもを見ている時、そしてあらゆる生きものたちを見ている時、どうしようもなく魅きつけられるのは、今この瞬間を生きているというその不思議さだ。

人間とって、どちらの時間も必要なのだ。さまざまな過去を悔い、さまざまな明日を思い悩みながら、あわただしい日常に追われてゆく時間もまた、否定することなく大切にしたい。けれども、年を取るににつれて、人はもうひとつの時間をあまりにも遠い記憶の彼方へ追いやっている。

日々の暮らしのなかで、“今、この瞬間”とは何なのだろう。ふと考えると、私にとって、それは“自然”という言葉に行き着いてゆく、目に見える世界だけではなく、“内なる自然”との出会いである。何も生みだすことのない、ただ流れてゆく時を、取り戻すということである。

歩んで来た人生をあれや、これや、考えても、今は刹那に生きることが、大事なのかも知れない。刹那的に生きる方がかえって将来に対する精神的安定をもたらすのではないかと思う。「いま、ここを無心に生きる」ということかも知れない。

目の前のことを精一杯やる。いまこの瞬間を精一杯生きる。「いま、ここ、この私」無心に生きるのが大事だと思う。

良寛漢詩・・・

花無心招蝶 ・・・花 無心にして蝶を招き
蝶無心尋花 ・・・蝶 無心にして花を尋ぬ
花開時蝶来 ・・・花 開く時、蝶来り
蝶来時花開 ・・・蝶 来る時、花開く
吾亦不知人 ・・・吾れも亦人を知らず
人亦不知吾 ・・・人も亦吾れを知らず
不知従帝則 ・・・知らずして帝の則に従う

花も蝶も無心に相手を招き、そして尋ねる。そこには何の計らいもなく、選り好みもない。花開く時、その命の働きによって蝶が来、蝶が来た時、花開く。

他人のことは知らないし、人もまた私のことを知り得ない。それでも、お互い何も知らなくとも、花のように蝶のように、人もまた、すべてが大自然の理法(天地の道理)に従っている。