他人には迷惑かけずに生きる

「他人には迷惑かけずに生きる」よく聞く言葉です。

だが、そんな人なんているでしょうか?・・・人に迷惑かけないで生きるなんてこと、できるのでしょうか?・・・人はみんな人に、迷惑かけて支えられて生きていくのです。

そのかわり自分もまた人を助けたり支えたりするのです。迷惑かけ、迷惑かけみんな、成長し、人は順送りに生きることなっているのです。そこが、他の動物と違うとこれです。

「迷惑かけて、ありがとう」朝日新聞・・・2013年01月26日の考えさせられる記事ので出会いました。・・・私も、父母の終末期を経験して、必ず来る終末期・・・自分だったったら・・・どうなるのだろうと考えました。

http://mytown.asahi.com/hiroshima/news.php?k_id=35000821301280001

「迷惑はかけとうない」「家で療養するとみんなに迷惑かけるです」「早う逝きたい、迷惑かけとる」。臨床で放たれる「迷惑」という言葉。その言葉を受け取るたび、私たちは身動きが取れなくなる。

「そんなことないよ」「迷惑なんて思ってないよ」「大丈夫だから」と返しても何の変化も生じないし、何の力にもならないのを知っている。

「迷惑」という言葉そのものが悪いのか、とさえ考え込む。「迷い」「惑う」。いや、生きてるということは迷い、惑うことだからそんなに悪い言葉とは言えないのに、「迷惑」と発声されると肯定の響きは消え去り、否定語の権化とさえ思えてくる。

赤ん坊だって、皆の手を煩わせながら育ち迷惑のかけっ放しだと思うのに、なぜか本人も回りもそのことを「迷惑」とは言わない。

大人になって病に伏したり、老いて食べること歩くこと排泄(はい・せつ)することが自分一人でできなくなったり、死を前にしたりすると、「迷惑」という言葉が湧いてくる。赤ん坊も老人も死も、人生の中のそれぞれの季節のひとつなのに。

そんな疑問を大阪で、哲学者の鷲田清一さんにぶつけてみた。ボクサーでコメディアンのたこ八郎の墓碑にはこう刻んであると鷲田さん。「迷惑かけて、ありがとう」。「迷惑」の向こうにお互いの心の変化を私たちがどう想像できるのか、そこが問われているんだろう。(野の花診療所院長)