していいことと、してはいけないこと

拾っても、拾っても捨てる人がいます。私達が住む町の公園のベンチで、食べたり飲んだり、タバコを吸ったりして、そのまま帰る子供・大人がいます。

公園で遊んでいる子供たちの親御さんに、そのことを話し、拾ったゴミを見せて、子供たちに、注意して欲しいと話したら、子供たちに話し、「ゴミは持ち帰りましょう」のポスターを、子供たちに書いてもらい張りました。結果、ゴミは少なくなりました。

私がある日、子供達が遊んで散らかしていた。「そのゴミはちゃんと片付けてね!」と注意したら「ハイ分かりました!」とみんな素直に返事をしてくれました。

「していいことと」「してはいけないこと」の区別がつけられない子供に限らず大人が多いのです。判断の基準は「善悪」ではなく、「自分の周りにいるみんながしているかどうかだ」と思います。

それは、ある学校の先生が言っていましたが、日本の子供が、家でも学校でも「ああしなさい」「こうしなさい」と言われるままに「受け身」で、自分できちんと考えるゆとりを与えられずに育ってきたためだという、遊びも受け身で、創造性も自分で考えることも必要としないからだそうです。

大人が、吸い殻を当たり前のように公園・道路に捨てて行く・・・無意識に捨てて行く。また、何のためらいもなく、別の人が捨てて行く、タバコの吸い殻だけでなく、空き缶・ペットボトル・紙くず・使った鼻紙まで捨てて、アッというまに、ゴミだらけになるのです。

「みんな捨てて行くじゃないか」・「みんなやっているから」と思っている人がいるからだと思います。子供の頃の家庭での「公衆道徳」を教えて貰わずにそのまま大人になってしまって親になっているのだと思います。

子育てにおいて、個性や独創、進取の気風といったことを排除する親や、子離れをしない親に育てられた子供は、自分で善悪の判断ができないから、周りの人々がするのと同じことをします。

社会的生活をする上で「善悪」をわきまえる判断能力は不可欠であり、子供の成長過程で躾として親が養うべきものです。

人は生きていくあらゆる局面において、この「善悪」をわきまえる判断能力が常に試されます。いじめも、この判断能力が養われず、十分に具わっていない土壌に生じるのです。