終戦の日の記憶

太平洋戦争は、昭和20年(1945年)8月15日68年前の今日。日本は負けたのです。

よく晴れて朝から陽射しが強く照っていた。子どもの私は、何時も警戒警報のサイレンが鳴らないので、「あれどうしたのだろう」と思っていました。(毎日のように大本営発表の敵機襲来、警戒警報発令・空襲警報発令、敵機B29の編隊は・・・の放送で防空壕に入った)

10時ごろに、母親が何か重大にユースがあると、ラジオで放送があったという。(そのころ、小作農で貧しいと思っていた我が家だったが、何故かラジオがあったのです。)

12時ちょうどに、父と母・兄弟4人と近所かた3〜4人が棚にあるラジオの前に集まった。「あれ隣りの清ちゃんがいない、誰か呼んできてくれと」親父言った。(親父は消防隊長だった)

兄が探しに行っていたら、直ぐ近くの兵衛川の川久保橋の左の土手に防空壕を掘っていたいう。泥だらけのシャツと顔だった。

12時。帽子・姉さんかぶりを脱ぎ並んだ。親父がおもむろにラジオのスイッチを入れた。ガーガーとノイズが凄いが何とか聞き取れた。天皇陛下玉音放送です。

私は何のために集まったのか、玉音放送とは、天皇陛下の声はと、疑心暗鬼な不思議な雰囲気だったことが記憶にあります。

暑かった。放送を聞いて、みんな肩を落していたが、防空豪を掘っていた清ちゃんは、直の事がっかりした様子でした。「さーてどうなるのだろう」みんな、不安気な顔を見つめあっていました。

近所の年上の友達は、「男は牛の鼻環をつけられて、強制労働だ」と口にした。本当なのかもしれないと思った。「女はと」聞いたら、答えはなかった・・・暑く、蝉の声がいやに大きく聞こえていたことが印象的に覚えています。

何故か分からないがその後の記憶は残っていません。私は8歳、小学校2年生でした。