老後はどうなる・・・自己責任?

全ての生き物は「生・老・病・死」は自然の摂理です。

いま、まさに老いようとしている自分は、老いたくなくても老いてしまう、病気をしたくなくても病気になってしまう、死にたくなくても死んでしまう・・・

このように思い通りにならないことや、自分の力ではどうすることも出来ないことが多すぎるため、苦しみ・悲しみ・怒り・恐れ・哀れみ・情けなさを改めて感じる今日この頃です。

さらに、いま社会はグローバル化は、ますます進化している時代といわれています。その副作用として無縁社会という新語がでるようになり、独善的な思考が強く感じられる世の中となってきたと思います。

老後を考えたとき、堪らない不安を覚えるにです。実際には社会環境・構造の問題で自己努力だけではどうにもならないものがあるのに、その結果を「自己責任」にされてしまうことです。

これが今の社会風潮であって、それに対し、最早 悲観・自虐・諦めてしまっている人が多いのではないでしょうか・・・

昔の形へ保守回帰すればいいのかというとそれも違うと思います。血縁・封建社会から脱却しようした結果・経過として今があるのであって、また そこへ逆戻りする事が、この事態を進展させるとは思えません。

無縁化時代、無縁化社会の老後今老後の問題となるとついの棲家をどこにするのか、どうしたらいいのかと問題です。墓もそうで、最後に行き着く場所が墓ですが、それも跡継ぎがいない・・・

介護にしても一旦病気になったりしたら助けになるのは近くの人です。つくづく病気とか介護になると、老後は近くが大事になと考えています。しかし・・・

世界の果てまでグロ-バル化した行き着く先は一番身近な世界が頼りになるというのも皮肉です。グロ-バル化した無縁化社会でも老後になると非常に狭い世界が頼りになってしまうのです。

その矛盾が現代の無縁化社会となって現れています。 会社から退職して切り離されたら会社の縁から無縁化する、では、地域の縁があるかと言ったら都会では余計ありません、

そういう縁を作ることはまた容易ではありません、お手伝いさんとか、ヘルパ-に来てもらうにしても誰か分からない人だと、その人に頼りだまされ殺人まで起きています。簡単に家族の中に他人を入れることは難しいのです。

無縁化社会というと、金が頼りになるというのも無縁化社会を象徴でもあります。でも金だけを頼りにするとき介護などでは解決しえない問題が起きてきます。

介護などは日頃からの信頼関係が大事です。他にも困ったときはどうしても日頃からの関係が大事になります。

困ったときは「遠くの親戚より近くの他人 」になるのは変わっていません、地球の裏側と経済的に結びついても困ったからと地球の裏側から助けがくるけではないのです。

もちろん物質的なものは送られるかも知れませんが、介護とかなると人力でありモノだけ送られてきても助けにならないことになります。

老後の問題は最後のアイディンティティを土地にも求められません、家族に求められません、皮肉なのは、共同墓地は老後になってはじめて知り合った人たちが作った墓地だったりします。

そのことが現代の無縁化社会を象徴しています。土地にも家族にもアイディンティティが求められず、最後は見知らぬ他人同士が共同せねばならぬという皮肉です。これは個人個人の問題ではなくグロ-バル化経済も、影響した結果だったかも知れません。