年寄りの不安は募るばかり

「年だなー」と思わす呟いてしまうことが多くなりました。

ちょっと風邪を引いてしまったり、足がもつれて転びそうになったり、いやいや自分も年を取ったものだと感じることがあります。気がついてみたら、何時の間にか・・・むかし子どもの頃に、「70歳・80歳なんて生きられるかなぁー」と思っていたのですが、その年代になってしまったのです。

老い支度も考えないうちに身体の衰えが気になるようになってきました。いゃー最近は、上手死に方は?・・・と考えるようになりました。今、高齢者が自らの意志で「死に場所」すら決めらす・・・畳の上で、、、なんて考えられません。

近い将来は、ひとり暮らしで体調を壊し、自宅にいられなくなり、病院や介護施設も満床で入れない・・・短期入所できるタイプの一時的に高齢者を預かってくれる施設を数か月おきに漂流し続けなければならない・・・と聞きます。「子ども達に迷惑をかけるだけの存在になりたくない」と思います。

施設を転々とする高齢者は同じようにつぶやき、そしてじっと耐え続けているのです。超高齢社会を迎え、ひとり暮らしの高齢者(単身世帯)は、今500万人を突破し「住まい」を追われ、“死に場所”を求めて漂流する高齢者があふれ出す異常事態が、すでに起き始めているのです。

「他人事(ひとごと)とは思っていたものが我が身に迫ってきています。さぁーて、あまり時間はない・・・

【生と死】抜粋

http://www.ueda.ne.jp/~houzenji/sub51.html

「老いとは障害を持って生きる世代」と定義しています。老いは私たちの生命に組み込まれた厳しい摂理です。「老いはのがれえぬわざなり」とは紫式部の嘆きであり、そのまま高齢化社会を生きる私たちのおののきであり溜息といえましょう。

夫婦共白髪はこれまでの理想、これからは否応なしに親子共白髪です。母子家庭は若い母とその子を連想しがちですが、「母米寿子は還暦の母子家庭」となり、「親も子も年金貰う長寿国」です。

「親孝行したい時には親はなし」は人生五十年の過去の時代・・・「親孝行したい時まで親は生き」となり、若者は「親孝行したくないのに親がいる」とひねり、子が担う責めを笑い飛ばして見せます。

来客に茶菓子をすすめていたときのこと、せんべいの包み紙がとれないでいます。つい手を差しのべると「指先に力が入らねぇ、お上人もじきにこうなるさ」という声が返ってきました。

老いこそ明日の我が身なのです。「階段の手すりや踊り場が有り難く思えるようになった。踊り場で一息入れてまた登る。踊り場の意味が体を通してわかってきた」と話す八十代の男性。

「通院する実家の父を長いこと送迎した。若かった私は動作の鈍い父の背に”のろまね、早くして”と叱咤していた。自分が父の年齢に近づいて悔やみきれない」と玄関に腰掛け、草履の鼻緒を足の指に押し込んでいる七十代半ばの女性。その年齢に達してはじめて気が付き、わかることがあるのです。